自主研究について

■研究テーマ
1.徳川家康と天海上人の江戸のまちづくり戦略(平成21年度)
①家康の江戸入府と風水思想での神社仏閣の配置
②天海上人の野望と上野・東叡山寛永寺
③家康が治める関八州の領地づくりと江戸城下のまちづくり
④天下人家康の江戸徳川将軍家と江戸町発展のシナリオ
⑤天海上人の徳川幕府と文化首都東京への貢献
2.路地文化と町家文化を再生させる路地防災のあり方(平成22年度)
①路地文化再生と木造住宅密集地域の整備
②木造建築文化と防災まちづくり
3.古民家・町家再生と観光まちづくり(平成24年度)
①古民家・町家再生の観光事業性の追求
②古民家・町家再生における地域資源開発の商品力づくり
1.徳川家康と天海上人の江戸のまちづくり戦略
①家康の江戸入府と風水思想での神社仏閣の配置
天正18年(1590)小田原北条攻めの際、東海甲信5カ国を治めていた徳川家康にとって江戸移付が秀吉の命令で下されたことから、戦国大名の城下町としてのまちづくりに取り組まなければならなくなりました。
家康がまずとった行動は、天海を秀吉に忠誠を立てる証として、江戸に骨を埋める覚悟を見せるため三河岡崎にある菩提寺(大樹寺)から江戸に同じ浄土宗の増上寺を探し菩提寺として、京の都の御所を中心とした風水都市に倣って、新しい江戸徳川家を守り、その本城となる江戸城を鎮護させる目的で裏鬼門の位置の芝に移転をさせたのでした。
同時に表鬼門に鎮護寺を探しますが、後に天海上人が自ら宗教界で天下を握ることになる寛永寺の創建を視野に入れて当面は、浅草寺を菩提寺ではなく祈願寺といたしました。
そして城内鎮守として江戸城内の紅葉山にあって江戸氏が祀り、太田道灌も川越から勧進した山王宮を後に裏鬼門の位置に移転させ日枝神社としました。 また、坂東の勇者平将門を祀る神田明神も後に表鬼門の位置に移転しました。
さらに、この江戸を自然の地形や地勢の中で風水の思想にあった四神相応の配置を持って徳川城下のまちづくりに取り組み始めたのでした。
また、霊峰富士山のエネルギーを取り込むため、風穴とする本丸を中心に右回りのらせん状の掘割りで、内堀に続き外堀と江戸城の築城とまちづくりがすすめます。
宇宙観自然観の中で生活の筋道を説く陰陽五行説の中で、森羅万象のバランスと万物を構成するものを木(青)・火(赤)・土(黄)・金(白)・水(黒)と捉えていることから、天海上人は江戸の町に五色の不動尊も配置したのです。
②天海上人の野望と上野・東叡山寛永寺
江戸転府の命を秀吉から受けた家康は、旧知の延暦寺の僧侶だった天海上人を川越の喜多院から呼び寄せて、菩提寺と祈祷寺の相談をして、それぞれが増上寺と浅草寺に定めたのをキッカケに、天海上人は家康の参謀となり、後に秀忠・家光と徳川三代に亘り将軍家の参謀役を務めることになりました。
まだ秀吉に仕えていた家康の天下統一の野望と天海の宗教界の天下取りへの野望が一致するのです。
比叡山に学んだ天海は、江戸に比叡山を越える天下寺を造ろうと考え、後に家康に城の鬼門にあたる上野の山を江戸徳川家の祈祷寺を造営するとして自分に造らせてくれと懇願します。
そして、ついに上野の山を屋敷領地として与えた藤堂家と津軽家、堀家を移転させて壮大な計画の実現に着手することになります。
寛永寺の土地を拝領したのは、江戸入府から32年経った元和8年(1622)2代秀忠将軍の時で、さらに3年後の寛永2年家光将軍の時に本坊が建立され、、寛永寺の伽藍が揃う根本中堂の建立は、拝領から76年が経った元禄11年、5代将軍綱吉の時代でした。
この間、天海は比叡山延暦寺の山号をもって東叡山とし、寺名も官寺に匹敵するように建設年号である寛永年をとって寛永寺とし、さらに比叡山宮門跡に対抗するため東叡山にも門跡を造ろうとしましたが叶わず、15年後に後水尾上皇第三皇子の輪王寺宮を迎え、別格筆頭の門跡寺院となりました。
ちなみに寛永寺の造られた忍ヶ岡(上野の山)の地は、京都御所の鬼門の位置に比叡山延暦寺と琵琶湖があったように、江戸城本丸から見て鬼門にあたる山(岡)と不忍池があったからで、京文化を取り入れた地といえます。 琵琶湖に浮かぶ竹生島にある弁財天から勧進を請けて不忍池に島をつくり弁天様を祀ったり、京都東山にある観音様を祀る清水堂と同じような舞台造りの構造で、忍ヶ丘の西斜面に清水観音堂を建立したり、他にもこの寛永寺のある忍ヶ岡には八坂の祇園堂をつくり、不忍池の畔には吉野の山から山桜を植樹して、これを後に観賞用に駒込の染井村のお百姓さんによって品種改良がなされ”ソメイヨシノ”桜の普及へとつながっていくのです。
そして、上野のお花見は家康と展開の仕掛けがあったことが、江戸庶民にも許され今のお花見の本場の誕生に繋がるのでした。 もう1つ庶民に広まった家康と天海の仕掛けは、七福神巡りです。
もともと室町時代に神仏混交の祈願場所として数箇所の神仏を巡り祈る風習は貴族などの階級にはあったようですが、庶民の娯楽文化政策としてお花見とこの七福神巡りがあり、寛永寺の塔頭の子院などを巡る仕掛けで、現在の谷中七福神につながっています。
(ちょっと先の話の展開になりますが・・・) また、天海上人は家康の最後に遺言が託されて、死後も江戸徳川将軍家を守護する神として天台宗の山王一実神道にのって大権現が名乗れるように働きかけ、朝廷から東照宮の名を許諾いただき、家康は”東照大権現”となりました。
神格化した家康の力は、死後も全国の大名統治にも強い働きを持っていたのでした。
その装置は、全国の諸大名の領地の中に”東照宮”という姿で、神君家康公は後年に至るまで崇め奉られたのでした。
③家康が治める関八州の領地づくりと江戸城下のまちづくり
家康が秀吉より与えられた領地は、江戸が葦一面の海岸であっただけでなく、当時の江戸湾には坂東太郎と呼ばれている年中洪水が絶えない利根川が注ぎ、まさに関東一面荒野の姿で人々の暮らしが成り立たない土地でした。
江戸に入府からすぐに、農民が働きお米が生産できる土地に変えるため、最初に取り掛かったのが利根川東遷事業の治水工事です。
関東郡代に任じられた伊奈氏は、渡良瀬川と鬼怒川を利根川に合流させて、南下していた江戸への流れを、今の茨城県関宿辺りから大地を掘削した難工事を敢行し東方の太平洋に向けて銚子北へと流れを大きく変えたのでした。
その結果、関東平野は絶え間ない洪水に悩まされた荒野から稲作もできる耕作地に変ったのでした。 また、家康は江戸入府からすぐに取り掛かったのが、城下町に住む人々の暮らしに必要な上水と塩の確保でした。
上水は、善福寺川や妙正寺川を合流させて神田川として、江戸城内に取り入れ、さらにそれを下町の神田や日本橋・銀座地域に供給しましたが、征夷大将軍になってからは人口が急増し、やがて承応元年(1652年)になって玉川上水の掘削計画を立て翌年には玉川兄弟の努力で開通しています。さらに水不足は続き千川上水、野火止上水、三田上水が完成されていきます。
江戸市中の大半の屋敷や長屋の井戸まで引かれた玉川上水は、四谷大木戸から地下水道で木樋や石樋が引かれ、江戸の町までの落差を利用して数箇所に大樽に小石、小砂利、砂を重ね、水を上部から入れて下部で流すことで濾過され、きれいな飲料水が江戸庶民にも供給されていたのでした。
もう一つの生活の必需品の塩は、千葉の行徳で取れたことから、正確に江戸の町の人々に届くように、本来ならば舟で日本橋まで江戸湾を直線で横切れば早いのですが、風雨嵐の時も運べるように陸地側にわざわざ運河を掘って、安全第1の塩の道をつくったのでした。
この日本で始めての運河が小名木川です。
そして、家康は水や塩の確保と同時に、武士や町民などが城下町に暮らせる場所(土地)を造ることでした。 なぜなら、家康が入城した江戸の館は、荒れ放題の雨漏りがするほどの屋敷で、小田原北条氏の末城で周辺は7つの山々に囲まれ海(江戸湾)に面した山の上にある建物でした。
元は、鎌倉時代までは江戸氏の居館であったものが、康正3年(1457)に扇谷上杉氏の家臣である太田道灌がここに江戸城を築城しましたが、砦に近いものであったといわれています。
その後、戦国時代になって、上杉氏が北条氏に滅ぼされた結果、江戸城は北条氏にとって京への拠点性も薄く役割がなく廃墟になっていったのでした。
この廃墟となった居城の城主を家康は秀吉から命ぜられ、天正18年8月1日江戸城に入ったのでした。 周りは山、目の前は海という地形の中で、家臣や町民に暮らしてもらう土地がなければ生活は出来ません。 (家康入府時の江戸の原風景は海岸沿いの山の中の寒村でした。 だから坂が多いのです)
そこで、家康は、徳川家居城としての江戸城の普請と、家臣たちの屋敷が建てられる土地を造成します。 運河と同様に日本で始めてのまちづくりの事業となる「海岸埋立造成事業」です。
居城のある麹町台地の東外れの海岸沿いの北側にあった神田山を削ります。山を平に削れば人が住める土地ができます。削った土を目の前の海岸を埋めれば、そこにも人が住める土地ができます。
まさに一石二鳥のまちづくりだったのです。
神田山は削られ、家康が大好きだった土地(家康が幼少時の人質となっていた今川氏居城であり、江戸入府を命ぜられる前に徳川家の居城として、また後に隠居場となる静岡の駿河城)の名前から駿河台という名がつけられました。
その神田山を削った土は、今の皇居前広場や大手町界隈として造成され、江戸湊は武家屋敷や馬場になったのでした。
やがて、関が原の戦いで勝利し征夷大将軍になった家康は、今まで家臣にさせていた江戸城の普請を全国の諸大名に命じて藤堂高虎の差配で城郭となる内堀と外堀をもつ大規模な大名普請として発展していきました。 大規模な築城に対して、江戸城までに木材や石垣を運ぶため、また運河を掘りました。
これが道三堀です。
この他運河は日本橋や銀座界隈を縦横無尽につくり、軍事戦略上反対に神田川から流れていた平川などは途中で堰き止めにしています。 この堰止められた神田川は大川(隅田川)に注がせて、外堀として活用するため山を削り本郷の台地と神田の台地に分断されたのでした。
この堀には江戸城内への小石川上水を流す水道の橋が架けられました。
このように家康は、誰も手のつけなかった土地を川の流れを変え、運河を掘り、山を削って海を埋立てて、家来や領民が暮らせる町へと江戸を大改造したのでした。
④天下人家康の江戸徳川将軍家と江戸町発展のシナリオ
信長は家臣に討たれ、秀吉は将軍家の継承ができなかった戦国時代の中で、関が原の戦いで勝利した家康は、征夷大将軍となって江戸の地で徳川天下の安泰を求めて、国家戦略を立て江戸のまちづくりが進められました。
信長も秀吉も出来なかった将軍家の安泰戦略を、家康は自分の目が利く時に手を打ちました。 それは、将軍の継承です。家康は征夷大将軍となった慶長8年徳川幕府を開幕して2年目の慶長10年には息子の秀忠に将軍の座を譲り、大御所となりました。
3代将軍の継承にまで首を突っ込み春日の局のご衷心によって、秀忠の次男の家光を家康自らが指名決定したのでした。
この後、家光は家康への敬慕と畏敬の念を強くして幕政に当たり、見事に家康亡き後も生前以上に東照大権現として生かしきって、家康が構想した幕藩体制による全国支配を確立したのでした。
家康から秀忠そして家光に引き継がれた政権は、全国統治という姿を大名統制の中でつくりあげます。開幕当初の大名普請や諸大名の全国配置(旗本、親藩、外様から仲の悪いのを隣同士の藩になど)から武家諸法度の発布や参勤交代まで、強い大名をつくらせない仕組みをつくりました。
そして、江戸市中には全国の諸大名の屋敷を造らせ諸藩の江戸屋敷として妻子を住まわせ、将軍のお膝元に人質を置かされていたのでした。
これは家康の幼少期の今川氏や織田氏での人質生活の経験から仕組まれたものと考えられます。
中でも大名統制の参勤交代は大きな経済効果や文化交流など大きな副産物を生んだのでした。 強い大名は江戸から離され、参勤交代ではお供の行列の費用や日数など膨大な負担に及びます。
参勤交代によって街道ができ、宿場町が発達し地域の物産の交流が出来たり、江戸には全国の物産や文化から途中仕入れた地方の情報も手に入りました。
江戸の物産や文化も帰りにはお土産として江戸の流行りものとしてもてはやされました。
こうして将軍家お膝元の江戸は、政だけではなく全国の経済・文化の中心地となったのでした。
全国へ旅立ちの出発点は今までは多くが居城の大手門からでしたが、戦国の武将だった家康は街道の出発地は直接大手門から城攻めに遭わないように位置をづらして日本橋としたのです。
ちなみに京橋は、家康の京の都への憧れを上野の山でつくったように日本橋から京都を目指した最初の橋に京橋を名づけたのでした。
⑤天海上人の徳川幕府と文化首都東京への貢献
天海上人が寛永寺建造プロジェクトを通じて徳川家の安泰と東叡山の発展に対して、また今の文化首都東京にとっても大きな貢献を果たしました。
その第一は徳川幕府の天下泰平国家の祈祷寺とした寛永寺に寛永15年には後水尾天皇の第3皇子の今宮の尊敬法親王(輪王寺宮)を向かえ門跡寺院となって比叡山より上位となり諸宗の高位をつくり、長く泰平の時代となる基盤を築いたことです。
天海上人の大きな貢献を果たした第二は、元和2年(1616)4月7日75歳で亡くなった家康の葬儀の導師を天海が勤め、家康に進言した遺言に従って久能山に埋葬し、翌年東照大権現の神号を朝廷より受けたことで、山王一実神道にのって家康を神格化し将軍家のシンボルにして、、一周忌に日光山に移して東照宮を建立させたのです。
最初の東照宮の社殿は秀忠が建てましたが、家光になって将軍家の威信を保ち、大名統治ができるように豪華華麗に建て替えられ、諸大名の領地にも東照宮を祀らせ家康を崇めさせました。
家康を神格化して東照宮を江戸城内の紅葉山をはじめ天台宗祈祷寺の寛永寺と浅草寺の境内に造営されただけでなく、全国の諸大名に家康(江戸幕府)を敬わせるため各藩にも東照宮を造営させ絶対従属を示させたことでした。
また、家康の法要には日光へ大名行列で将軍家への忠誠を示させました。 この家康が眠る東照宮を配した久能山(裏鬼門)と日光山(玄武)も、江戸将軍家を守る風水の方位に位置し、壮大なスケールで江戸が守られていたことになります。
天海上人の大きな貢献の第三は、家康の意思を強く引き継いだ3代家光将軍によって信長が焼き討ちした延暦寺の再興と寛永寺の大伽藍の造営を実現し、家光は遺言で今までの江戸徳川将軍家の菩提寺の増上寺に加え寛永寺も将軍家の菩提寺とさせたのでした。
天海上人の大きな貢献の第四は、忍岡界隈に京文化(祇園堂、清水観音堂、合羽橋三十三間堂、不忍池の弁天堂と池畔の桜並木など)の導入で東叡山にも出入りが自由で江戸に住む人々に安らぎと憩いの場を提供し、江戸市中のシティリゾートとしたことでした。
後の元禄の時代には浅草や上野を中心に江戸庶民文化が花開くその基盤をつくっていたのでした。そして徳川幕府に幕を閉じて明治になってからも、忍岡と不忍池周辺には洋館が建てられ近代競馬も開催され博覧会も行われたのです。
今では博物館、美術館など文化ミュージアムの集積する上野の文化の森となったのです。
家康が創った江戸は、久能山、日光山をはじめ多くの東照宮のある地から守られ、東京として引き継がれた現代でも家康によって守られているのではないでしょうか。
2.路地文化と町家文化を再生させる路地防災のあり方
①路地文化再生と木造住宅密集地域の整備
防災上最も危険な木造住宅密集地域の整備は、国土交通省や地方自治体を中心に取り組んでいますが、遅々として進んでいる姿が見えてきていません。
狭隘な路地にある建物の接道を4メートルに拡幅して建物を建替えさせる方法や、地区整備を推進するための地区計画を導入する方法などの今の主流の消防車や救急車を通して来るのを待つ防災まちづくりでは、残念ながら今そこに生活をしている人々の心と行動を変えることはなかなかできていないようです。
このままでは、災害時に甚大な被害をもたらすのは目に見えています。
中越地震や能登半島地震、東北の内陸地震など多発している地震被災地の被災直後の映像は、木造家屋の倒壊している姿がよく映ります。
あたかも木造建築が地震に弱いというような印象がぬぐい切れなくなってきています。 果たして、コンクリートの建築が強いのでしょうか。
阪神淡路大震災では都市直下型となって市役所やデパートなど多くの鉄筋コンクリート造りが倒壊したり、亀裂が入り取り壊さざるをえなくなりました。
鉄筋コンクリート造りも地震には決して強くなかったのでした。
木造住宅が地震に弱いのは、少子高齢化や核家族化の社会で木造住宅に残されているのはお年寄り世帯だけだからです。子ども達が離れた家は年寄り達だけの暮らしとなり、リフォームなどの改築にも手を出さずに木造建物の老朽化に拍車をかけているのです。
本来は、子ども達が一緒に住んでいるならば、リフォームやリニューアルが施されて、老朽化に歯止めをかけられるだけでなく、快適な生活空間への改造も容易なはずなのですが…。
お年寄りだけが暮らす家になった結果、防災への耐震補強なども多くが進められていなかったのでした。 21世紀の時代は、かつての高度経済成長社会におけるスクラップ&ビルドという概念から 地球環境への配慮にも心がけてリフォームやリニューアル、リユースやリサイクルの時代に入ってきているのではないでしょうか。
特に、狭隘な路地に並ぶ木造住宅が現況の中で敷地面積を削らず建替えても、今まで通りの家族が暮らせたり、町並み景観が不揃いにならないよう新しい防災対策として地域ぐるみで消火栓ホース設備の配置などの取り組みが注目されます。
今までの消防車が来るのを待てるよう路地を4メートルに広げずに、自分たちの命と財産は自分たちで守れるよう女性やお年寄りでも扱える消火設備を配備することで、木造住宅の建替えや路地や生業文化を守っていこうとするものです。
日本を代表する観光地京都市東山区の祇園町南側地区や岐阜県高山市の伝建地区での取り組みは注目されます。
②木造建築文化と防災まちづくり
昨今の無差別殺戮事件などが続く非人道的・非平和的な行為の姿が見られる現代社会は、人間としても日本人としても、人生観や生活観に日本の風土が培ってきた道徳的な機軸が失われてきていると痛感しています。
伝統的な風土に培われてきた世界に誇れる特有の日本文化が、現代の教育や暮らしの中でないがしろにされてきたからではないでしょうか。
精神文化を柱とするすべての伝統的日本文化の姿は、今、本来の修養の場や体験の場が失われつつある中で、さらに衰退の道を歩んでいます。
この日本文化の修練や体験や日常の暮らしの場が、今までは日本建築の環境の中からつくられてきました。 核家族化が進み、単身化が助長されてきた中で、コンクリートマンションが受け入れられ、街の中で雨後の筍のように建ち、昨今ではマンションの高さがステイタスとなり、さらに高層化が進み、隣人も誰か分からないままの地域生活が日本を覆い尽くそうとしています。
人々が暮らす住まいの姿や形は、生活様式や生活行動とそこで育てられた子供たちの人生観や生活観に大きな影響を与えます。
今ここで、コンクリートマンションや2×4工法の建て替えが主流に進められているまちづくりに歯止めをかけて、日本文化が宿り、すばらしい美意識を表現でき、大切な日本人資質が育まれる建物を日本の伝統的な木造建築に求める時ではないでしょうか。
命やものや季節や歴史や人との関わりを大切にする心を取り戻し、日本文化の修練を通じて、日本の大切なものが次世代に引き継げるよう伝統的な木造建築文化を復興する時です。
かつては伝統的な日本の木造建築を代表する神社仏閣も、温泉旅館も鉄道駅舎も学校も、皆コンクリートビルとなり、全国どこへ行っても金太郎飴のような同じ建物ばかりです。
地域に培われてきた風土がつくりあげる建物の姿の地域文化が失われています。木造だからできた伝統美の業が消えています。
伝統的な木造建築文化を振興することは、木造建築に暮らしたり、関わる人々だけに日本人の心を取り戻すだけでなく、多くの建築に関わる世界に誇るべき伝統的な技法や技能を次世代に継承していくことを確かなものにしていきます。
3.茶室建築文化研究

①清漣亭___________________京都市北区・等持院
等持院は足利の家の霊所で、足利義政の好みとつたえられていますが、
定かではないそうです。
1818年以来の再建が2018年~2019年春まで行われていました。
今回の再建で西側に位置していた瓦葺切妻屋根造の四畳半茶室を取り壊し東側に建つ茅葺屋根造の小亭のみが再建されました。
等持院庭内の池を見下ろす小高い場所に位置しており、網代(あじろ)天井(てんじょう)や棹(さお)縁(ぶち)の平天井、アーチ状の丸太を壁止めにした中敷居窓などの特徴があります。



②東陽坊________________________京都市東山区・建仁寺
天正十五年(1587)に北野大茶会で千利休の弟子である真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられています。


③伏見(ふしみ)稲荷(いなり)大社(たいしゃ)御茶室(おちゃしつ)_______________京都府伏見区・伏見稲荷大社
後(ご)水尾(みずのお)天皇(てんのう)(江戸時代)から貴人(きじん)へと拝領(はいりょう)されてきた茶室となっており、今日までに3度当時のまま拝領(はいりょう)されています。
躙り口(にじりぐち)ではなく立ったまま入室できる貴人口を用いるなど貴人の生活に合わせた設計となっています。 違い棚(ちが だな)や付(つけ)書院(しょいん)がある書院造(しょいんづくり)となっていますが、丸太や面皮柱(めんかわはしら)の床柱を使用するなど数寄屋建築の要素も取り入れられており、時代の変化を感じ取れる
現在は春と秋のお茶会にのみ使用されており通常は非公開となっています。



④寶(ほう)主(しゅ)軒(けん)______________伏見稲荷大社(社務所内)
現在、伏見稲荷大社社務所内にある裏千家から献茶されたお茶室。立礼式で席を両端に分け中央に動線をひいています。襖からの彩光は日光ではなくLEDによるもので光を重視する茶室の文化か表れています。

